Dorails

日記

バチェラー5の1〜6話感想

先週1〜3話を見て正直今回は盛り上がりに欠けるかなーという印象だったが、4〜6話がめちゃくちゃ面白かった。

 

1〜3話

1から3話はバチェラーとして頼りない長谷川さんに女性陣が不満を抱く展開が目立った。

「好きです」ってインタビューでは言ってても、デートの表情見てると全然好きそうに見えない。正直大丈夫か?と思った。

 

まぁ過去の参加者の配信で言ってたのは「カクテルパーティーは数分話す程度」「デートは数時間」ということで、一目惚れでもしない限り好きになるのは普通じゃないとは思う。だからこそ圧倒的スペックと見た目でアドバンテージをとってきた過去のバチェラーと比べると、生活レベルはおそらく一般人レベルの長谷川さんを奪い合う構図には無理があるように感じた。

 

そしておそらくスタッフ側から「女性陣、あまり好意的でないので頑張ってください」というのは長谷川さんにも伝わっていた。

発言で不満を抱かせたときはフォローする発言をしていたし、バチェラーとして自信なさげな側面も垣間見られた。

というのもあり「好き好きアピール」をする女性になびいてるように見え、それも「大丈夫か?」と思わせる要素だった。

 

長谷川さんを好きでもない女性陣が演技で「好き好きアピール」をして、そういうアピールをした女性ばかりが残されていくんじゃないかってのがここまで見た懸念で、ショー全体が全体が茶番化しそうに感じられた。

4〜6話

長谷川さん、馬鹿にしてすみません。

 

長谷川さんも自信が戻り、ちゃんとバチェラー感が出てきた。

「好き好きアピール」だけの女性は落とされ、長谷川さんに本気になってそうな女性も出てくる。だからこそ感情的なシーンも多くあってすごく面白かった。

月田さんも「計算高いタイプかな?」と思ったら本当に「色々考えちゃって自分を押し出せないタイプ」だったみたいで1〜3話との印象と良い意味で大きく変わった。

たぶん女性陣の中であまり好かれてなかったのかな。あの場の説得の問題ってより、それまでに「月田さんにローズ使って欲しい」って思わせられるほどの人間関係ができてなかった差に感じられた。

 

ここまで見た感じだと大内さん、西山さんの2強な感じ。

竹下さんはカクテルパーティーで体調崩した同情票と、ローズを含めたアピール力でギリギリのところで生き残った印象。体調崩してなかったら実際あのタイミングで落ちてそうだった。

情報処理能力の低さとMBTIの直感型

遺伝子検査をしたら情報処理能力に低い項目が多数あった。

具体的に書かれてる内容を見ると「確かにこういうの苦手だわぁー」という印象。

 

人より物事を深く捉える自信はあったからなんとなく情報処理能力高いのかな?と自分で思っていたけど、むしろ逆かもしれない。

つまり外界からの情報を捉える能力が劣っているから、それを補うように内面の世界が充実したのかもしれない。

 

こう捉え直して見ると、MBTIの感覚(S)vs直感(N)は情報処理能力の違いからくるものにも見えてきた。

つまり情報処理能力が高いと外界の刺激に素早く反応的に振る舞うことができる。一方で情報処理能力が低いと外界からの刺激を素早く処理できないので、結果的に長く推敲することになる。

前者はスポーツや営業のようにリアルタイム性が求められるシーンで適切に環境適応するのが得意な一方で、後者は状況からパターンを見出すのが得意って感じか。

 

一つの仮説として。

他者を行動変容させることと仕事のストレス

「ストレス感じた」と思うタイミングの多くは、他者の行動を変容させようとしているときだ。

これをどう取り扱うかを考えていく。

仕事の切り分け

アドラー心理学や仏教では自分の仕事と他者の仕事を切り分けて自分の仕事に集中することが推奨されている。

その意識だと自分の仕事へ他者が過剰に介入してくるときにストレスを感じることはあっても、基本は平穏に過ごすことができる。

切り分けられない仕事

しかしマネージャーのように、他者の行動を変容させること自体が仕事の中心になる人もいる。

そうした人はなかなかこうした意識でストレスを回避することは難しい。

 

マネージャーにとって行動変容させる必要のない従順な部下が好かれるのもこうした側面が強いだろう。

黙っていうことを聞いてくれる部下は、ストレスにはなりづらいからだ。

支配したがる人

一方で好んで行動変容させたがる人もいる。

パワハラ上司もそうだが、他人を自由に操れることは一種の快楽でもあるのだろう。

となると行動変容させるのがストレスに感じるのは、単にその技術が低いからでもあるかもしれない。

とはいえアドラー心理学でもいうように、多くの人の悩みが対人関係にあるのは間違いなく、対人関係の悩みは他人が思った通りの行動をしてくれないのがほとんどだ。

映像の時代に人の心がどう変わるか

現代は動画コンテンツの時代と言われている。

若い世代は文字を読むことを辞め、動画で情報を得るようになったという。

 

単純に考えれば小説・漫画・映画と、絵や音が追加されるにつれ情報量自体は増えていく。

しかし小説原作の映画化を見ると、情報量が少ないと感じることが多々ある。

それは小説・漫画・映画と情報量が増えるにつれ、登場人物の心の声がミュートされていくからだ。

 

それはより主観的に物事を捉えるようになるとも言えるかもしれない。

たとえば小説ではある風景に対しての心情が描かれる。一方で映像だと描かれるのは表情のみで、それに対してどう感じたかは察するしかない。

登場人物と体験は共有できても、心情までは共有されず、あくまでその風景に感想を抱くのは自分自身でしかないのだ。

 

そう考えると、小説を読まず映像で育つ世代はより主観的に物事を捉えるようになっているのかもしれない。

別の言い方をすれば、異なる視点を学ぶ機会が薄れる。

 

となると、現代人はより他者への理解が希薄になっているのではないかという仮説が生まれた。

本当にそうか

もちろんセリフとして「私はこう感じた」「私はあのときこう思った」と登場人物の心情が吐露されることはある。

そもそもテレビが何十年も娯楽を支配し、小説を中心に読んでいる人なんてあらゆる年代で少数派だろう。

とはいえ明らかにブログや本の領域はYoutubeなどの動画メディアに奪われてはいる。

 

ただ動画メディアのほうが感情が伝わりやすい側面はやっぱりある。

たとえばリモートワークになって文字だけだと感情を掴みづらいので、Zoomで話すようにするなんてのを聞く。

ニュースを新聞で読むより、現地の映像付きで動画で見たほうが明らかに感情移入しやすい。

 

やっぱり動画のほうが感情が伝わりやすいのかなぁとも思う。

言語化されない領域

普段小説は普段言語化されない箇所が言語化されている面が大きいかもしれない。

人は他人に対して思ったことをなんでも言うわけではない。そうした普段言語化されない面が言語化されるのは小説ならではかもしれない。

一方でニュースや教科書みたいな単なる情報のやりとりであれば、文字のメリットは情報取得が速くできるぐらいか。

となると、登場人物の心情が吐露される小説を意識的に読むのが良さそうだ。

疑問がそのまま文章になるNotion AI Writing

Notion AIを使う中で、次世代の執筆体験と言えるような体験をしたのでメモ。

 

記事を書いてるときに何か調べ物をするのは普通だ。

執筆中に使いたい概念に対しての説明文をちゃんとした文章で書きたいとき、他の選択肢に何があるのか調べたいとき、書きながら「そういえばこれってどうなんだろう」って思ったとき。

 

そうしたときに普通Googleの検索窓に移動して検索して、記事の執筆に戻る。

一方でNotion AIでAIに尋ねると同じ画面上で検索できて、さらにそれ自体が文章になる感覚なのだ。

これを繰り返すと、Notion AIの書く文章を読みながら疑問に思うことを尋ね続けるだけで1つの記事になるのだ。

自分が疑問に思うことは読者も疑問に思う点と考えると、あながち記事としても悪くないんじゃないか?

 

単純な調べ物にしても同じ悩みにぶち当たるたび調べ直すってことはあるので、普段メモを残しながら調べ物をする。

なのでAI Writingで調べると、結果や、その時感じた疑問そのまま文章で残せるのは嬉しい。

 

現実問題ハルシネーションもあるし、これのためにNotionに課金するのも躊躇われる。(すでに色々なAIサービスに課金してるので)

とはいえNotion AIというと文章作成から文章の改善、要約などが主流だが、こういった使い方もあるって覚えておくと良さそう。

組織編成の変更頻度が引き起こす諸問題

過去関わっていた会社の組織編成の入れ替わり頻度がとても多かった。

エンジニアをPMにして、半年後にデザイナーをPMにするような自分の想像の外の変化があるので、非常に興味深く見ていた。

ただ一方でそこに所属する側として感じる問題も感じた。

こういう課題は自分が組織を運営する立場だと見えづらいものなので、忘れないうちに文章でまとめておく。

中長期的な見通しがしづらい

たとえばMVPの開発を行なってるフェーズであり、それぞれのチームがそれぞれの責務でリリースを目指しているとする。
最初はフロントエンドとバックエンドに分かれたチームで、数ヶ月後に職種でなく機能別のチームに変わり、またその数ヶ月後に全てのチームが統合された。

そうなると自分の責任範囲が頻繁に入れ替わり、その都度中長期的な計画が無意味となる。
結果として近視眼的になり、目の前のタスクに無心で注力することしかできなくなる。

おそらく中国共産党下での民衆の感覚に近そう。

これを踏まえると「変化しない約束」は大事であり、アジャイル開発も2週間に1回のプランニングのようにペースを一定に保っているのはそれもあるのかなと感じた。

機動力の高さと約束事による不確実性の削減の良い感じのバランスを考慮する必要がありそう。

近代史が最も重要な学問かもしれない

近代史は歴史の授業でも薄く取り上げられる程度だが、近代史を知るにつれ近代史こそ重要で深く知るべき学問に感じる。

 

まず今を生きる人たちに最も影響を与えるものであり、それこそその時代を生きた人もいるものだ。たとえば習近平文化大革命の頃を生きた人であり、文化大革命を知ることは彼を知ることにつながってくる。

特に世代を年齢で見るのではなく、何を経験したかで見るのも大事だ。たとえば左翼が高齢化しているという話がある。それは全共闘時代や日本赤軍を生で見てきた世代、そして日中戦争に捕虜になり洗脳された日本兵が今も生きる世代と見ると、その世代だからこそ多いのだろうとも思えてくる。

 

そして今はその近代史から繋がる線の末端であり、流れとして近代史を捉えることで今を見ることができる。

特に海外に行くと日本の物差しで測ってしまいがちだが、10年前まで電車も走ってなかったようなところが今はスマホ片手に電車で通勤していると考えると中で生きる人たちの世界の捉え方も大きく違うんだろうなと思う。

 

特に最近重要そうだと感じるのが中国の近代史だ。

大躍進政策からの文化大革命で富裕層知識人が殺され建造物が壊され書物が燃やされ尽くしたのが約50年前。それが今の中国に繋がる道筋って歴史的に見ても稀有な事例に思う。

今の日本に未来はないよねっていうけど、ゲームで当時の中国と今の日本どちらから始めますか?って聞かれたら日本って答えるだろう。地理的ボーナスや人口ボーナスも加味すると自力は強いとはいえね。

 

一年前に「チャイナ・ウェイ――中国ビジネスリーダーの経営スタイル」を読んで中国企業の運営スタイルに感銘を受けたわけだが、それも多少近代史を知った今読み直すとまた新たな発見がありそうだ。

それも含めて今まで「点」で捉えてたものが、近代史を知ると線になる感覚がある。

 

それは専門であるエンジニアリングもそうだし、組織論もそうで、点で捉えるとその場その場のトレンドに振り回されることになるが線で捉えると流れとして追うことができる。

 

で、近代史を学ぶために何をすれば良いの?ってことだが、もちろん網羅的に歴史をとらえた本を読むのもそうだが、その時代の本を読むことが一番に感じる。

その時代の価値観で思考を重ねた結果の結論として捉えることで、より感覚的な理解につながるからだ。

なのであえて古い本を読み、本を読む際は書かれた時代背景を学び、その人の人生を脳内で追体験してから、読むのが良さそうだ。

 

ちなみに最近の欧米では今の価値観で過去作品を作り直すことが流行っているが、近代史は重要という観点から見るとものすごい愚行だなと感じる。