Dorails

日記

「きれいごと」と現実社会の裏側

「格差がなくなるのが大事だよね」とか「全人類が教育を受けるべきだよね」とか「奴隷のように扱うべきではないよね」とか「先進国のゴミが大量に途上国に輸送されてるのはけしからん」とか、現実世界の問題は枚挙に厭わない。

とはいえそれを解決するのが果たして誰の幸福につながるのか?みたいな話も考えると、そう簡単な問題でもないんだろうなと感じる。

 

知の逆転のジャレド・ダイアモンドへのインタビューでは、パプアニューギニアが高等教育を始めたせいで、むしろ社会問題に繋がったエピソードが語られている。

高等教育を仕事がなく、農村から離れたため農業のナレッジもないからだ。

中国も現在新卒の就職率が5割を切っているかもしれないとのことで、中国共産党は若者を農村に送り返そうと必死だ。

この視点で考えると、もしかしたら人類の大多数は教育を受けずに農業をひたすらするのが正しいとも言えてしまう。

もしかしたら全員が貴族にはなれず、単純作業をひたすらする人が大量に作らないと、人間社会は成立しないのかもしれない。

 

これは高等教育を受けた人がつけるような仕事は有限であり、特に途上国でその枠は限られているということなんだろう。

「AI化で仕事が奪われても別の仕事があるよね」みたいな話はあるし、日本に閉じて考えればそれも正しいのだろう。

だが、マクロな視点で見ると世界のどこかで席を奪われた人がいるとも言える。

仕事は選ばなければいくらでもあるのはあくまで日本の話であり、そもそも仕事がなくて生きていくのに必死な人が世界中には溢れている。

たとえば先進国のゴミが大量に途上国に輸送されてる問題にしても、それが途上国の仕事につながっていて、それがなくなると生きていけなくなる人もいるわけだ。

将来「ゴミを資源に変える技術ができました!人類ハッピー!」ってなったとしても、裏側でもしかしたら仕事を失い生きていけなくなる人も出てくるのかもしれない。

 

だからと言って理想に対する歩みを止めていけないというわけではないとは思う。

だが、強者としての残虐性を受け入れた上で、一種の諦めを内包することも大事だろう。